- 2025/03/14
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童のごとく
- カラバ公爵さん
- (2017/06/27 09:22)
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童のときは
語ることも童のごとく
思うことも童のごとく
論ずることも童のごとくなりしが
人となりては童のことを捨てたり
『コリントの信徒への手紙』
お久しぶりでございます。カラバです、息子はラノベに夢中です。
(旧約)聖書、タナハ、啓典といったテキストを基にした宗教、(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教 etc)の奥儀に「予定説」があります。一言で言ってしまえば「誰が救われて誰が救われないかは、もう既に神が決めてて覆らない」という物でこれに納得してしまうと誰でも忠実な神の僕に自動的にならざるを得なくなるというすさまじい教義です。これが僕の考える聖ロザリンドのモチーフの第一のバックグラウンド。
聖ロザリンドはキリスト教がモチーフになってますからキリスト教で話を進めますと、イエスは
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
と論じます。幼子の件は聖書の中でもマルコ、ルカ、マタイに記述があります。そこで数多のキリスト教徒、宗教学者が「じゃぁ、幼子の如くってどういう状態なんだろ?」と考えるわけですが、これが割りとバラバラであんまり見解が統一されて無い。ネットでさくっと検索すると、なんと言うか布教に都合の良い幼子像(従順だったり欲望が無かったり悪意が無かったり)は示されるのですがなまっとさんのようなわりと身も蓋も無いリアルな幼子像はスルーされる傾向がある感じ。
そこで思いついて、じゃぁ幼子とは何かをなまっとさんが論じるとおりの幼女としてロザリンドを読み直してみたらあら不思議。ロザリンド救われたじゃん。ロザリンド迷える子羊達を神の思し召しと助けで片っ端から神の御許へ導いてるじゃん。完璧じゃん。と、なんかストンと納得してしまいました。
なまっとさんは啓典宗教の奥儀に自力で達してしまったのではあるまいか。
カラバ公爵さん へ
- なまっと
- (2017/07/17 18:13)
コメントありがとうございます。以前より精力的にブログ更新しておりませんで、お返事遅くなり申し訳ありません(汗 息子さんもラノベを読まれるまでにご成長されたのですね。月日の流れは早いですね。
なるほど! 聖書の件は一切存じ上げず、とても勉強になりました。あの凄惨な内容でも、皆、神の国へ導かれるのだと思えば、やはりロザリンドは「聖」人であるし救いのある物語だと私も腑に落ちました。
わたなべまさこ先生は「ロザリンド」と発表の近い『ガラスの城』もキリスト教をモチーフにしておられ、“人の行いは人が裁かず神が裁く”という思想信条に貫かれています。とある事実から確執が生じて、あらゆる行動を起こすイサドラと、そのあらゆる行動を許すマリサという2人の主人公の駆け引きを描いたドラマですが、ロザリンドも同じ発想に基づいた作品のように思えます。
神様が適当に裁くので人間はとりあえず何でもやっておこう
という神様に丸投げしておくキリスト教というのが、わたなべまさこ先生作品にはあるのではないかというのが私の見立てです。
啓典宗教の奥儀……私が自力で達したのであれば自身の聡明さに有頂天になるのですが、わたなべ先生のご教養と感受性による表現をただただ読んだだけですので、やはりわたなべ先生はすごい漫画家だなぁと思います。