2016/09/04 Category : ないようがないような 読む人のこと(5) 共通認識こそが〈常識〉で〈普通〉の感性とする仲間内では共通認識以外の認識は〈非常識〉で〈異常〉な感性とされるため、それを集団内で表明するのは難しい。集団における空気が一定方向に流れているとき個々の感性でものを言うのを避ける傾向は、異常で非常識な者が存在を現さないよう排除あるいは抹殺するための「禁止」を自主規制として行っている。集団の常識を肯定する態度を示しておけば、集団から消されることはない。賛同してくれる仲間を多く集める利点は、自身の感性が集団における〈常識〉に従うものであることを補強できること、また、それによって〈普通〉を定めて〈異常〉を選別し排除できることにあるように思えてならない。それは覇権だ。集団における常識を肯定したい、肯定される常識的な発言をしたい、普通になりたいという欲求のために発言すること(=共感を求めること)は、覇権を握りたいという願望のような気がする。……や、集団に属したい人の誰もがそうではないでしょうが。*《影響力があるから「改めよ」「禁止する」》ってなんだろうか。これは、個人の発言が他を牽引する力をもつということが前提になければでてこない発想だ。強大な覇者は、共感を多く集めている、支持者が多い、集団(支持者)の価値基準について一定の方向付けができるように見える。しかし、それは集団が共感と言う形で特定の人物に権力を与える(認める)類のものだ。共感を集めることができれば誰だって覇権を握ることができるのだ。そして、共感できる、できない(権力を認める、認めない)を判断するのだって本来なら個人の勝手である。にも拘らず、他人(とりわけ、覇者と目した人物)の影響力云々いうのは《とりあえず、その集団から消されたくないという気持ち》だったり、《自身の覇権を握りたい願望のためその人物を同一視》したりという、判断を個人において行わなかったときに生じる問題のように思う。《影響力があるから「改めよ」「禁止する」》というのは、自身が個人として判断せずにその集団の一員であろうとしていたとき、集団が向いている(と想定している)方向と異なる自分自身のズレが顔を出した時の反応のように思える(※)。《共感することを抑圧と感じて、個人の意思・思想が発露した場合》や、《共感することで得ている同一視であるから共感できないことをされると同一視できなくなって困る》というようなことではないか。※ このとき一定数が声を揃えれば、新たな集団として団結してより居心地の良い集団に所属するきっかけになる、ということもなくはない。それはそれでハッピーだ。*たぶん、まともなコミュニケーション、あるいは充実したコミュニケーションができる人と言うのは嫌でも集団に所属しなきゃっていう被害妄想っぽい強迫観念とか、絶対にその集団で覇者になる! という誇大妄想的野心とかは持っていない。集団帰属のための意図的な共感をするために神経すり減らしてない。もっと身勝手に共感したりしなかったり、楽に構えて発言しているんじゃなかろうか。どんな思想を持つかも、他人に共感するかどうかも個人が判断して決定するものだし。思想に共感されるかどうかは運みたいなものだし。共感できないという人から悪評を広められるかどうかも運みたいなものだし。そんな運みたいなもののために、思想を改めるか、発言を自粛するかどうかを判断するのも自分だし。……書く人も、読む人も、自分の好きなようにすればいいんだよ! PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword