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あ~っぷぅ教

小学生の頃、友だちとカルト教団を作って遊んだ事がある。
はじまりは宗教ではなかったのだけれど、気が付いたら宗教になっていた。

“あ~っぷぅ”について話す前に“よくみたらゲーム”という遊びの説明が必要だ。“よくみたら よくみたら”と節をつけて唱え、身近にあるものを指差して、それがどういう様子なのかを“8・5”の音数で説明するというもの。例えば、パンダを指差して「パンダはメガネで・サングラス」という風に“よくみたら”意外な様相であったことを説明するのである。

いかに意外性を言うかという発想力をためす遊びであり、あるいは、特定の人物を指差してあることないことを言ったりしてからかったりする遊びであった。いずれにせよ、ゲームに参加している仲間うちで笑いが取れれば良いという他愛のないものである。

さて、私はこのゲームが苦手だった。人をはっとさせるような発想力もなければ、人を貶めて笑いをとろうという度胸もない。ついでに、説明を8・5で言えるような語彙もない。そんなわけなので、この遊びで自分の番が回ってきたときはすでにお決まりのパターンと化している、“特定のものを指して決まり文句を言う”ことにしていた。

ただ、そのとき指をさせる“特定のもの”が友人の某だけだった。いつもなら某の頭髪に対するからかいの言葉が決まり文句として続く。――普段の心持であれば続きの言葉を言う事が出来たのだけれど、そのときはたまたま気が進まなかった。情緒が不安定な時期なので、物事の感じ方が日によってかなり違っている。私は某に対してからかうことに躊躇してしまったのだった。私は某を指差して「某のあたまが……」というところまで言いかけて言葉を失う「あーー」……

思いつかなかったので、とりあえず出てきたのが「ぷぅ」という意味のない音だった。意味はあったのかもしれない。「頭がプー」といえば、「プー太郎」とも言うのだから、そういう悪口のつもりで「ぷぅ」と言ったような覚えがある。しかし、某の頭脳は明晰であり、とてもそんな間の抜けた形容が当てはまるとは思われなかった。ゆえに、ゲームに参加していた友人は“あーっぷぅ”で一単語と捉えたらしい。

そして、“あーっぷぅ”という架空の人物が生まれたのであった。


このような経緯だったので、“あーっぷぅ”とは某を示すあだ名のようなものだったはずなのだが、いつだか“あーっぷぅの歌”というものが作られて、某と人格を異にしていった。気が付けば“あーっぷぅ”は一人立ちしていたのである。


>♪ 1 あなたのなまえは/あーっぷぅ
    独身めざして/一直線
    テストで100点/目指してる
    0点なんて/とるもんか
    その名はやっぱり/あーっぷぅ


  2 あなたのなまえは/あーっぷぅ
    離婚の危機が/迫ってる
    隠し子見つかり/さあ、たいへん
    これじゃあ離婚は/決定だ
    それでもなまえは/あーっぷぅ


  
記憶に残っているのは1,2番だけだけれど、大体こんな感じのしょうもない内容が7番ぐらいまで続いたような覚えがある。 (インパクトのあるものでは、当時総理大臣だったO総理が国会中にあーっぷぅにさらわれて、上野動物園のゴリラの檻に閉じ込められ、あーっぷぅは政治犯として名を馳せるという内容のものがあったと思う)

作詞は私個人ではない。あーっぷぅというキャラクターに興味をもった仲間内で、複数人数が携わっていた。私を含む当時の小学生の社会的出来事への興味・関心・理解がこの歌の中に織り込まれていたように思う。

これに加えて、私が個人的に「“あーっぷぅ教”の信徒が日課にしている行動」を紙にまとめたものを作り、皆に見せて笑いをとったことがあった。あーっぷぅ教徒の活動は“日の出と日の入りの時刻に太陽に向かってシェーをする”。“他の宗教の聖典にラクガキをする”。“信徒同士で集まって“あーっぷぅの歌”を歌う時間を設ける”という3項目だった(と思う)。フザケタ行動なのは言うまでもない。

こう思い返して気になるのは、“あーっぷぅの歌”に描かれている“あーっぷぅ”の人物像、“あーっぷぅ教”というカルト教団という設定、信徒の行動、いずれもがどこか社会に適合しない、アウトローじみた性格だということ。

私が小学生の頃といえば、オウムの地下鉄サリン事件があり、我々は横浜市営地下鉄を利用した社会化見学などを校外学習行事に織り込んでいたため、その影響をもろに受けている。地下鉄利用を控え、バスをレンタルし、行き先を例年とは別の場所にするなどの対応がされた。

そんなわけなので、“カルト教団”なんてものが遊びの中で発想されるだけの下地が小学生の我々の中にあっても不思議はなく、むしろ自然のことだったように思う。

また、あーっぷぅの人物像についてだが、原型は某という頭脳明晰の人物で、その人の個性を引き継いであーっぷぅもまたインテリ志向の人物として設定された。しかし、2番ではその未来について、およそ某とは関係のないキャラクターとして独立している。(実は某は女子なのだが、2番の歌詞のあーっぷぅは男性であることが読み取れる)

あーっぷぅとは、インテリ志向の人物で、甲斐性がないというのが1,2番の詞から読み取れる人物像であるが、それが後、強盗犯や政治犯などの犯罪に手を染めていく。“独身目指して一直線”であり、甲斐性がないがゆえに“離婚”する。結婚し、隠し子が見つかる程度には男女関係を持てるようではあるけれど、結局のところ“独身”となる孤独な男なのである。

インテリ志向で甲斐性がない孤独な男は、アンチ・ヒーローとして我々仲間内の想像力を舞台に悪の冒険を繰り広げる。そのヒーロー像が我々の間に親しまれる様を“カルト教団”として例えたのか。結局のところ、わたしの馬鹿馬鹿しい「信徒の活動」にまとめられるようなかたちで落とされるので、真の意味で崇拝するところまでは行かない。ただ単に、アウトローな人物像についてを我々が定義するための媒体になっていた……のだと思う。


子どもの遊びって面白いね☆

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