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@ゆりかごから墓場まで@

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笑って キャンディ


  どこへいったのかな あのこ
  ひとりぼっちの くさむらで
  つめをかみかみ しゃがんでた
  なかまはずれの みそっかす
「コスモス」
 * * *

  けど もう お父ちゃんいてへん
  お母ちゃんもいてへん
  けど やっぱり 日曜日の朝になったら繰り返す
  ひとりぼっちの ひとりぼっちの
  ぼくのひとりごと
「朝」(「日曜日-ひとりぼっちの祈り」)
 * * *

  ――そしたら そしたら
  いないんだ だれもいないんだ
  生きてるものは
  いないんだ
  だれも
  ――うえ死に してたんだ……

  死がいが いっぱい
  太陽 ギラギラ
  ぼくだけ 生きてて
  こわいよォ! こわいよォ!
  おーい! おーい!
  呼ぼうとしても
  泣こうとしても
  泣けない
  呼べない
  死がいがいっぱい こわいよォ!
  ぼくだけ生きてて こわいよォ!
「ゆめ」(「オデコのコイツ」)

 * * *
蓬莱泰三の詩から。(上2編は信用できる資料からの引用ではありません;)
私の知ってる“ひとりぼっち”が登場する詩を部分的に持ってきました。
「ゆめ」は直接一人とは言っていないけれど、状況的には“ひとりぼっち”
と思ったので持ってきました。
「コスモス」
“あのこ”はなかまはずれ。客観的なひとりぼっちです。
これは“あのこ”からコスモスをもらった女の子の視点で描かれています。おうちの事情で引っ越してしまった“あのこ”はどうしてしまったのかしら、と揺れる原っぱに咲いたコスモスの花に重ねて想っている。「なぜあのこわたしに花をくれようとしたのかな」と浸っている。――女の子は印象的な出来事と記憶して、なんとなく彼のことを思い出しているのでしょうね。・・・実際を考えてみると、なかまはずれの子が誰かに何かを訴えかけようと物をあげるというのは相当勇気のいることだと思う。コスモスと共に記憶に残った“あのこ”。やるなぁ。


「朝」
お父ちゃんとお母ちゃんが死んでしまった。“ぼく”はひとりぼっちです。
この前書いたとおりの内容。他の詩についても簡単に紹介すると「街で」デパートへ出かけ家族がいない孤独を味わう。「かえり道」学校の帰り道でいじめっ子にからかわれ疎外感を味わう。「てがみ」事故で同じように家族を失った被害者の子に訴える。「おやすみ」死んでしまった両親に語りかける。

ぼく”のひとりぼっちっぷりが描かれるわけですが、それ以上に彼が他者に対して露出しているようであることが注目される。他者から彼がどのように認識されるかということが描かれるのだけれど、彼らが“ぼく”をどんな目で見ているにしろ他者と交わり続ける事がある意味で彼を“ひとりぼっち”の状況から脱しているように見える。(精神的には“ひとりぼっち”かもしれないけれど)

だから、デパートで変な子のように見られたり、かえり道で学校の子に“人殺しの子”よばわりされようと、被害者の子から恨みの対象にされようと、他者に存在を示し続ける限りにおいては“ひとりぼっち”ではないように感じられる。むしろ、死んでしまった両親に“ぼく”の意識が向かうほど、彼の“ひとりぼっち”が強調されるように思う。辛いだろうけど、そのうち良いことあるよと言ってやりたくなりますね。


「ゆめ」
みんな死んでしまった。“ぼく”はひとりぼっちです。
ただし、タイトルが示すとおりこれは夢なので、実際この子が天涯孤独のひとりぼっちになったわけではない。ビアフラのジャングルに暮らす子どもになった夢を見た。戦争と飢餓で村人がみんな死んだ。そういう夢を見た。しかし、悪夢を見るほど「ビアフラの飢餓」について思い悩んでいたのでした。興味を持つというのは自身でしかできないことで、気になったことに決着をつけるのも自分でしかできないこと。だから、向き合うのは自分しかいない。組曲「オデコのコイツ」に収録されている5編の詩には葛藤するぼくの悩みっぷりが描かれています。ガンバレー。


 *

参考にした詩が少ないので短絡的な展開ではあるけれど、
蓬莱泰三の言うところ真の“ひとりぼっち”というのは「ゆめ」に描かれる、みんな死んで自分だけ生き残った状況ではないか。周囲に誰もいない。泣こうとしても呼ぼうとしても訴える相手がいない。自分の存在を認識してくれる人がいない。たしかに、「日曜日」もみんな死んでしまったけれど、この子の周囲には人がいる。その人たちにアピールするのであればこの子は“ひとりぼっち”、あるいは社会的に“消滅”することもないはず。その点、「コスモス」の“あのこ”はなかなかたいしたことをやってのけたと思う。コスモスによせて自身の存在を脳裏に刻み付けるというやりかた! まさに芸術ですね。コスモスを見たら俺を思い出せよ! みたいな。・・・いや、そんな押し付けがましいことは言わなかったと思うけれど、自然、見たら思い出す運びになったじゃないですか。

「どうしてるかな あのこ」。

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