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@ゆりかごから墓場まで@

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ああ、そうか。

つまり、
自分が肯定できないという「ちょっとしたこと」。

肯定するために、自信を持つために、何かを達成したいと思う。
即物的でもいいから、これをこうしたらこうなるという「できた」を実感したい。

それだから、あれだ。”あたりまえ体操”。
当然の指摘がされ、「そのとおりになる」という肯定 = 「できた」 
という事例が繰り返されるから、快感とか安心とかをえられて
愉快愉快って、面白いんだろうな……

・・・・・・ そうか。
あれがヒットしたということは、世の中の価値観が不安定なんだ。
きっとみんなものを知らない子どものように自分の絶対を定められない。
モチベーションの下がっている卑屈な気持ちを拾ってくれたのが「あたりまえ」
だとすると……


面白いってなんなんだよ。つまり。 

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面白いもの

面白いことがわからなくなった。
それがここで言う「ちょっとしたこと」。

わたしは、“ここに書く”こと自体が面白かった。
自分の考えていることを書きつけるのが面白い。
考え自体にはかたちはないけれど、文字に起こせば一応定着する。
考えることと、定着させる工程と、定着する瞬間が面白い。

それがカウンセリングの影響で面白がりながらできなくなった。

このことについて、友人から今までの面白がり方を否定したうえで、より高度な面白さを追求するための転換期と考えて、発展的に取り組んでいけばいいじゃないか、というような提案をいただいたこともあったけれど、そうじゃないんだ。

私は、あくまで、それまでの面白要素を覚えておきたい。捨てるんじゃなく、引き出しにしまっておきたい。いつでも取り出せるようにしておきたい。私はこのままでは今の面白さを馬鹿にして、将来的に、当時魅力的に感じていたことを馬鹿にしかねないという不安を覚えた。馬鹿にするのはよくない。だって、あの頃、楽しかったんじゃん?


というのは、私はある種の二次創作をお子ちゃまのやることだと否定して馬鹿にしていた時期があって、他人を中傷したり、自分自身の創作の幅を狭めてしまったり、まるで良いことがなかった。色々意見を参照したり、自分でやり方を模索するうちに、そのお子ちゃま的やり方とレッテルをはったことは“二次創作の魅力のひとつ” あるいは“創作の一方法” として切り離すことのできないものだと気が付いた。


少なくとも、それがある行動を成立させるのであれば、段階的なとらえ方で否定したり下に見たりすることはおかしい。“進化” だ、“より高度” だ、“発展的” だ、と段階ごとで区切るのもまたひとつの見方だとは思うけれど、方法の種類で見る場合、その区分は無意味だ。


色々なやり方があるし、それぞれに魅力的なんだ。



私はやり方を選べない。もう、選ばなくていいんじゃないかとも思える。そのときどきで好きなようにやればいいじゃないか。その結果何が起こっても仕方がない。そんなこと、どうでもいいじゃないか。…… 上手く切り抜けられるようになろう。

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ブログ書くのが怖い

ブログをはけ口に、思想を書きとどめておくこと。現状を綴っておくこと。
そうしたことで、同じような悩みとか不安とか迷いとかがある人が読んで共感なり、反感なり、とりあえず何かを考える参考になればいいと思っていた。また、私自身の心の安定にも良い効果が望める。だから、ここに色々書いていたのだけれど、ちょっとしたことがあって、自分がやってきたことややろうとしていることを肯定できなくなった。平たく言えば、書けなくなった。

書けなくなった、と言いつつ書きつけるのは「ちょっとしたこと」を吹っ切りたいからです。



なんでも「できなくなる」ことの原因は自分の心理的葛藤を克服できないことにある。

たとえば、石に躓いて転んでしまった。
そんなとき、ふいにそこに転がっていただけの石に八つ当たりしたって仕方がない。
転んでしまった自分の注意不足や何かに原因をもとめてもどうしようもないことだってある。たまたま偶然そうなってしまっただけなので、何が悪いとか言っても仕方がない、と思う。それでも、どうしても転んでしまったことに腹がたったとき、一体どうしたらいいのかわからない。そういう時に「できなくなる」というにっちもさっちもいかない状態に陥ったりする。

石に八つ当たりをしたり、自分自身に原因を認めて解決できるのであれば世話はない。それができないから困る。自分の意見をどこに定めればいいのかわからないから困ってしまう。最終的にどうなりたいかという願望を叶える解決策を決められない。そんなときに誰からなんというアドバイスをされてもやはり決めかねる。どのアイデアにも魅力的な要素は認められるが、どれ一つとして気に入らないのだ。

いったい自分はどんな行動をして望む結果を得たいか、という“過程へのこだわり” がある……
いや、むしろ、一般的な固定観念から、行動は願望のためにあるという“目的意識” 自体が欠落しているのかもしれない。にもかかわらず、それにあわせて、望む結果という建前を用意しているにすぎず、本当は“過程” や“行動” だけが興味の範疇で、結果なんてどうでもよかったのではないか。



ゆえに、“過程” や“行動” を悪くとられると、とてもナーバスになる。
どんなに「ちょっとしたこと」でも。

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その人は語る

ウソかホントかは置いといて
実しやかに言えればいいんでないの?


間違ってるか当たってるかとかそれほど重要じゃないので
まずは胸を張って言いきってみましょう。


文句とか言われても気にすんな。
どうでもいいことなんだから……

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