2016/08/25 Category : ないようがないような 読む人のこと(1) ブログに書きつける目的も千差万別だろうけれど、限定公開にしない限り第三者が読みに来る可能性は捨てきれない。チキンレース感覚で「読みに来た人が現れて文句言ってきたら引き下がる」ような取り組みの人もいれば、「ほかの人の意見を聞きたい」から見えるところに置いてるって人もいる。あるいは、どうせ読む人はいないだろうし意見もいらない〈ひとりごと〉をしている場合など。 ・ 第三者が読むことを想定している ・ 知人だけが読むことを想定している ・ 自分の考えの整理整頓のために書いてる執筆者ごとに意識が違うのに、どれも「読める状態」になっている。他人のブログを読む人っていうのは、どういうつもりで読むんだろう。読後感に責任を求めるという受け身感覚の人がいる。ツイッターのタイムラインとかで流れてくるんでなければ強制的に「読まされる」ことにはなりづらい。そのブログがランキングやランダム表示されるサービスかなんかに登録されているとかいうことがない限りは、積極的な行動なくして辿りつかないように思うのだけれど。検索したとか、知人を辿ったとか。それでも「読まされた」という気分になるのだろうか。逆に、「読む」ことにめちゃくちゃ自覚的かつ能動的で、見つけて辿りついた自分の功績とばかりに「発見した」という人もいるような気がする。「読める状態」というのは、異文化が発達した新大陸か何かに似ているかもしれない。求めて「発見した」にしろ、迷い込んで「読まされた」にしろ、「読む」とは未知との遭遇だ。「読んだ」ことで、どんな感想を持つのも個人の感覚によって違うだろうし。意見が出るというのはそういうことだし。ただ、持った感想をどうするか。書いた人間に伝えるか、胸にとどめるか、忘れるか。あるいは、書いてあったこと(書いた人間)を他人に言い広めるか。 PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword