- 2025/03/14
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≪管理人の寝言ノート≫ 右側リンクから“注意事項”をはじめにお読みください * わざぐぅ感想はリンクより『好きなモノガタリ』
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ブログをはけ口に、思想を書きとどめておくこと。現状を綴っておくこと。
そうしたことで、同じような悩みとか不安とか迷いとかがある人が読んで共感なり、反感なり、とりあえず何かを考える参考になればいいと思っていた。また、私自身の心の安定にも良い効果が望める。だから、ここに色々書いていたのだけれど、ちょっとしたことがあって、自分がやってきたことややろうとしていることを肯定できなくなった。平たく言えば、書けなくなった。
書けなくなった、と言いつつ書きつけるのは「ちょっとしたこと」を吹っ切りたいからです。
*
なんでも「できなくなる」ことの原因は自分の心理的葛藤を克服できないことにある。
たとえば、石に躓いて転んでしまった。
そんなとき、ふいにそこに転がっていただけの石に八つ当たりしたって仕方がない。
転んでしまった自分の注意不足や何かに原因をもとめてもどうしようもないことだってある。たまたま偶然そうなってしまっただけなので、何が悪いとか言っても仕方がない、と思う。それでも、どうしても転んでしまったことに腹がたったとき、一体どうしたらいいのかわからない。そういう時に「できなくなる」というにっちもさっちもいかない状態に陥ったりする。
石に八つ当たりをしたり、自分自身に原因を認めて解決できるのであれば世話はない。それができないから困る。自分の意見をどこに定めればいいのかわからないから困ってしまう。最終的にどうなりたいかという願望を叶える解決策を決められない。そんなときに誰からなんというアドバイスをされてもやはり決めかねる。どのアイデアにも魅力的な要素は認められるが、どれ一つとして気に入らないのだ。
いったい自分はどんな行動をして望む結果を得たいか、という“過程へのこだわり” がある……
いや、むしろ、一般的な固定観念から、行動は願望のためにあるという“目的意識” 自体が欠落しているのかもしれない。にもかかわらず、それにあわせて、望む結果という建前を用意しているにすぎず、本当は“過程” や“行動” だけが興味の範疇で、結果なんてどうでもよかったのではないか。
*
ゆえに、“過程” や“行動” を悪くとられると、とてもナーバスになる。
どんなに「ちょっとしたこと」でも。