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@ゆりかごから墓場まで@

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頭の中の整理整頓

うつうつするけれど、またブログに書きつけるようにしよう!
(形だけでも)人目につくところに文章を置いておくという意識をもっとかないと、それ用の文章を書くときに配慮する頭がどんどん働かなくなっていってしまうので、メモ帳じゃなくこっちに上げては消すを繰り返すことにしよう。

以前、ブログを読み合うような交流をしている方から「鬱文章書いてるの、みっともない」と言われて、反論に「似たような状況の人の参考になるかもしれない(共感を得て慰めてもらいたいとかじゃなく、鬱な人が書きがちな文章例として何かに使えるんじゃないか、という予感がしていた)」と言ったことがあった。

今思えば、自分でも一体その理由なんなんだよ?! と首をひねるものではあるけれど。

その方とは文章を読むとか、他人に読ませる意図について意識が全然違ってたというのは何となく感じてはいたことでした。畑違いから言われたことなら関係ない話ダネーと今は思えるんだけれど。当時は、同じことに取り組んでいる(ここでは「ブログに文章を書きつける」ということ)人間ならば根本的なところに理解し合える何かがあるはずだと(一方的に)信じていたので、懇切丁寧という名の面倒くさい長文でその方にくどくど説明したりしていた。そういった労力を尽くしてなお「みっともない」という印象になるんだから、私が費やしてきたことはなんだったのかと。ショックでした。

そんなのは、慢心ですね。

何か言葉に出来てるってこと自体が楽しかったからいい気になってたというのは否めない。果たして、「言っていることが伝わるかどうか?」という意識がすっぽぬけていたので、意図を理解しない人に無理やり理解させようとしていた。わからない人は何言ってもわからない。自分が好きなようにしたい人は、好きなようにする。誰が何を言ったところで自分の意見を優先させるだろう。

――ああ。むむ君も言っていたさ。
「好きにしろ」「おまえ次第だ」と。
彼の行動原理はどうやら「俺のため」らしいので、自分のことは自分で決めなさい。そのようにみみみちゃんに言っていた。極めつけは「考えるより先にカラダが動いちまった」から仕方なかったのだし。

……絶対、むむ君はみみみちゃんに好意を持っていたと思う。(『わざぼー』の話)

そんなこんなで、鼻っ柱をへし折られたということでした。

結果的に「自分が一体何を楽しんでいたのかわからない」という状態になって、私情はなるべく書かないようにしようということにしていたのだけれど、考えをまとめる場、文章を書く練習として活用できるものを使わないのは馬鹿馬鹿しいので、「文章書くの楽しい」という気持ちを高めるために書く。書こう。書くぞー!! うおーーーーーっ!!!

とりあえず叫べばどうにかなる気がしている。

はやく元気になりたいなあ!

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背く山路に思いこそ入れ

……み、みかくにん、ゆーほーくんの、
「空から水がふってきたっほぅ☆」……やべぇ
萌えて死ぬ…… 死ぬッ!



それはいいや。
前の記事にも書いたけれど、友人から教えてもらったフリーゲーム

『冠を持つ神の手』 (配布元のゲーム紹介ページに飛びます)

で昨年12月の頭頃から遊んでいる。

このままだと、だらだら遊び続けそうなので区切りをつけるつもりでプレイメモ的なものを書きつけておく。7年ぐらい前に完成版が配布された世に出て久しい作品と言うこともあり、これまでに築かれてきた伝統的で文化的な既存の作品イメージを破壊するような発言をうっかりするんじゃないか、とやや怖気づいているのですが。

冷静に考えてみれば、たくさんのユーザーを抱えている作品そのものが、たった一人の取るに足らないユーザーによって揺らぐようなことには、まず、ならないでしょう。それも既に完成している作品だし。

……丈夫に舗装された道を踏みしめる人人人混みに紛れて、敷き詰められたブロックタイルの砕けた小さな破片をこっそり蹴飛ばし、誰かの踵に命中させるようないたずらって楽しいよね! 

ああ、きっと周回遅れなことを言ってるだろうな。
恥ずかしいなー……(ブツブツ)




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2016年のごあいさつ


ジョッシュ君はプライスレス


とくになんということはないけれど、
籠り癖があるのでちょっとでも出ていける場所があるなら
そこには顔を出すように気を付けようと思う。

年賀状くれたともだちにお返事を書かなくちゃだわ!

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ああ、そうか。

つまり、
自分が肯定できないという「ちょっとしたこと」。

肯定するために、自信を持つために、何かを達成したいと思う。
即物的でもいいから、これをこうしたらこうなるという「できた」を実感したい。

それだから、あれだ。”あたりまえ体操”。
当然の指摘がされ、「そのとおりになる」という肯定 = 「できた」 
という事例が繰り返されるから、快感とか安心とかをえられて
愉快愉快って、面白いんだろうな……

・・・・・・ そうか。
あれがヒットしたということは、世の中の価値観が不安定なんだ。
きっとみんなものを知らない子どものように自分の絶対を定められない。
モチベーションの下がっている卑屈な気持ちを拾ってくれたのが「あたりまえ」
だとすると……


面白いってなんなんだよ。つまり。 

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ブログ書くのが怖い

ブログをはけ口に、思想を書きとどめておくこと。現状を綴っておくこと。
そうしたことで、同じような悩みとか不安とか迷いとかがある人が読んで共感なり、反感なり、とりあえず何かを考える参考になればいいと思っていた。また、私自身の心の安定にも良い効果が望める。だから、ここに色々書いていたのだけれど、ちょっとしたことがあって、自分がやってきたことややろうとしていることを肯定できなくなった。平たく言えば、書けなくなった。

書けなくなった、と言いつつ書きつけるのは「ちょっとしたこと」を吹っ切りたいからです。



なんでも「できなくなる」ことの原因は自分の心理的葛藤を克服できないことにある。

たとえば、石に躓いて転んでしまった。
そんなとき、ふいにそこに転がっていただけの石に八つ当たりしたって仕方がない。
転んでしまった自分の注意不足や何かに原因をもとめてもどうしようもないことだってある。たまたま偶然そうなってしまっただけなので、何が悪いとか言っても仕方がない、と思う。それでも、どうしても転んでしまったことに腹がたったとき、一体どうしたらいいのかわからない。そういう時に「できなくなる」というにっちもさっちもいかない状態に陥ったりする。

石に八つ当たりをしたり、自分自身に原因を認めて解決できるのであれば世話はない。それができないから困る。自分の意見をどこに定めればいいのかわからないから困ってしまう。最終的にどうなりたいかという願望を叶える解決策を決められない。そんなときに誰からなんというアドバイスをされてもやはり決めかねる。どのアイデアにも魅力的な要素は認められるが、どれ一つとして気に入らないのだ。

いったい自分はどんな行動をして望む結果を得たいか、という“過程へのこだわり” がある……
いや、むしろ、一般的な固定観念から、行動は願望のためにあるという“目的意識” 自体が欠落しているのかもしれない。にもかかわらず、それにあわせて、望む結果という建前を用意しているにすぎず、本当は“過程” や“行動” だけが興味の範疇で、結果なんてどうでもよかったのではないか。



ゆえに、“過程” や“行動” を悪くとられると、とてもナーバスになる。
どんなに「ちょっとしたこと」でも。

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