忍者ブログ

@ゆりかごから墓場まで@

Home > ブログ > 未選択

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

・・・だいじょうぶなのか?

私的な記事を書かなくなって半年ぐらいたったのか?
状況はよくなってるのか、悪くなってるのか?

経年、という点で見れば色々と手遅れになりつつあると思う。
以前と今との違いは、やっていたことをやらなくなったということで、
継続するのと、継続しなくなるのと、どっちのほうがいいのだろう?
(よかったのだろう?)

私が思うに、切迫してるのであればだれかなんといおうと
やめるべきではない

んじゃないか。


どっちがいいのでしょう?
前提として自分は不安定だ。その人が何か異常な行動や言動をとったとする。

感覚としては、頭の中に狂っている人がいて、その人が表面化してるだけだ、ってのと
もうすでに狂ってしまっていて、自分の言動の異常性を知らないというのと

 *

(“自分” というのが、なんか固有名詞化してるし。だめだこりゃ!
(<自分で書いた> 文章にダメ出しした時点で上記がわざとらしくなる
(表現が……・ 自然なのか、わざとなのか、見分けることなんてできるの? 

 *

なんだかうんざりだ。
なんだかすごく すごくうんざりだ。

拍手

PR

ーー

なにかをやらない、という決断をするのはとても楽。

なぜいまそれをやらないのかという理由をいうのも簡単。

そして、いったい何をどうしたいのかを書き出してみると、
まず、決めた「やらない」と言ったことをやっておけばよかったんじゃないかと後悔する。

・・・・・・ ようするに、物事の順番が組み立てられないんだ。

どうしようもない。

 * * *

と、思わずに、現状把握するだけでいいじゃない。
いまそれをやらない理由だけで十分だ。
それがわかってるだけでも良いことなんだから。
もういちどそこからはじめればいいんだから。

 * * *

がんばれー

拍手

学園生活をループする話

これをあっちの文章にいれちゃだめだと思ったから、こっちに置く。

* * *

わたしは卒論(50000字以上だったか)をテーマ決め含めて1週間で書いた。当然ながら内容があやしい。少ない根拠から組み立てたので非常に胡散臭い。我ながら話の筋を通したのはなかなかの力技だったと思う。が、果たして卒論としての体裁は整っていただろうか? 文字数は表で補ったため、地の文章で計算するという規定から言ったら危うかった。し、本来なら卒論の内容を振り返って、反省点を述べたり次回への抱負を言うなどをする“終わりに” の部分に「燃え尽きたぜ」 というニュアンスの15文字程度の一言を書いたことがひじょーにマズイと卒論執筆指導の教授から言われた。かくても、卒論の合否は学科内の専攻分野ごとにいるいちばん偉い先生の判断にゆだねられる。その人が良いと言えば良いことになる。私は一週間程度で書いたぺらっぺらの内容に加えて、不備が指摘されるもろもろの事項をこれといって問題にされることなく、“テーマが面白い” との評を頂いて学校を卒業させてもらった。

日本ってそういう国……

修学旅行に行きたくないことを理由に尿検査を提出しなかったにも関わらず、強制的に旅行に連れてかれるような国です。情けと決まりごとがごっちゃになっている。当人のいかなる心情から発した行動および結果であるかということに関わらず、「自分が与えうる幸福を与えることが尊いことだ」という宗教的思想の上で成り立っている。つまり、主観的な、「せっかく期日まで間に合わせて書いた卒論の内容に不備があるからと言って、書き上げた努力を認めないわけにはいかない」 という温情と、「尿検査の提出ごときで学生生活一の重大イベントといえる修学旅行に行けないのは可哀想だ」 という慈悲によって、本来定められているはずの基準や決まりごとは無視される。きわめて感情的な判断のもと、良し悪しの判断がなされるため、最終決定をくだす人の気分次第で運命を左右されてしまう。

なお、“日本は” とは言い過ぎで、どちらの学校も私立だったので、私立の学校ってそういう学校(かもしれない) というのが正しいのだけれど。


 *

わたしは、モンスターズユニバーシティを見て衝撃を受けた!
これがカルチャーショックかぁ!! ってなった。
(ここの話の流れとは全く関係ないけれど、若サリーが良い奴だった)


 *

…… 朗報です。
私立学校がアバウトなんだ。
学校がおかしかったのであって、外の社会はシステムを保とうとしてる。
私を含めて、一部の頭の弱い人たちは社会よりも自分がいた学校のやり方を疑った方がよい。社会を敵に回すよりも、自分に世の中の仕組みを理解させた学校のほうが小さくてとりかかりやすいぞ! 社会のミニチュアってのは嘘だし、教育機関でありながら何を教育しようとしてるのかわからん。良い学校で社会的に役に立つ機関だったかどうかは、もろもろひっくるめて俯瞰してみないとわからない。


だから、学校は信用しちゃいけないって思ったよ。
学園ものなんて嫌いだ!  (それは言いすぎだし、嘘ですよ)


※ ジャンルへの好みの問題は……
趣向からの判断か、自分自身の葛藤を投影しての判断か、を自分の胸に手をあてて考えてみればいいと思う。だいたいの人は学園ものという趣向を愛しているのだと思う。青春じゃん。別に学校VS生徒とか、学校=社会とかいう発想に至り「世間ってまじパネェ」 とかネタじゃなく本気で言い出さなければ、たぶんきっと、世の中は明るくあったかいと思う。そうじゃなく、社会に出てつまはじきになって学校に帰ってきちゃう気持ちって、つまりそういうこと(うえで書いたような事)なんじゃないかな、っていう…… 


感想にすぎない!

拍手

いつからか

「ねえ、中心がズレているの? それとも中心からズレているの?」

「そんなこと聞くもんじゃないよ。単純に“ズレている”。
 それ以上のことは考える必要ないことなんだよ」

「でもさ、でもさ、どっちが正しくてどっちが間違っているか……」

「正しいも間違ってるもあるものか。
 勧善懲悪が廃れた時代に、それを議論しようったって無意味だ」

「じゃあ、いったい何からズレているの?」

「…… 今でしょ?」

拍手

面白いもの

面白いことがわからなくなった。
それがここで言う「ちょっとしたこと」。

わたしは、“ここに書く”こと自体が面白かった。
自分の考えていることを書きつけるのが面白い。
考え自体にはかたちはないけれど、文字に起こせば一応定着する。
考えることと、定着させる工程と、定着する瞬間が面白い。

それがカウンセリングの影響で面白がりながらできなくなった。

このことについて、友人から今までの面白がり方を否定したうえで、より高度な面白さを追求するための転換期と考えて、発展的に取り組んでいけばいいじゃないか、というような提案をいただいたこともあったけれど、そうじゃないんだ。

私は、あくまで、それまでの面白要素を覚えておきたい。捨てるんじゃなく、引き出しにしまっておきたい。いつでも取り出せるようにしておきたい。私はこのままでは今の面白さを馬鹿にして、将来的に、当時魅力的に感じていたことを馬鹿にしかねないという不安を覚えた。馬鹿にするのはよくない。だって、あの頃、楽しかったんじゃん?


というのは、私はある種の二次創作をお子ちゃまのやることだと否定して馬鹿にしていた時期があって、他人を中傷したり、自分自身の創作の幅を狭めてしまったり、まるで良いことがなかった。色々意見を参照したり、自分でやり方を模索するうちに、そのお子ちゃま的やり方とレッテルをはったことは“二次創作の魅力のひとつ” あるいは“創作の一方法” として切り離すことのできないものだと気が付いた。


少なくとも、それがある行動を成立させるのであれば、段階的なとらえ方で否定したり下に見たりすることはおかしい。“進化” だ、“より高度” だ、“発展的” だ、と段階ごとで区切るのもまたひとつの見方だとは思うけれど、方法の種類で見る場合、その区分は無意味だ。


色々なやり方があるし、それぞれに魅力的なんだ。



私はやり方を選べない。もう、選ばなくていいんじゃないかとも思える。そのときどきで好きなようにやればいいじゃないか。その結果何が起こっても仕方がない。そんなこと、どうでもいいじゃないか。…… 上手く切り抜けられるようになろう。

拍手