忍者ブログ

@ゆりかごから墓場まで@

Home > ブログ > 記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

自分に見えていることだけで考える

1個前の記事に拍手してくれた方
大変気分が盛り上がりましたm(_ _)m




基本的に「こういうこと思ってる人、書く人はいるだろう」という些末な例として、というスタンスは変わらない。こういうこと思っている人・書く人のことをみっともないという人は自身の同様の状態もみっともないと言って自分を追い込むタイプと思う。また、他人に指摘したからには自分はやらないというのは自由だけど、ほんの些末な個人の感情程度であって社会運動として大々的パフォーマンスでやってます、ということでもないんだから。人の目に留まるわけでもない社会の末端で発散の選択肢を狭めたっていいことないよ。

みっともないということはあるかもしれないけど、みっともないなりに精一杯生きようゼ!


※ 学校の授業で、重度知的障害の子どもをもつ母親の手記のようなものを読まされて日常の描写のあとに胸の内を詠んだ短歌が添えられているというものだったけれど、私はそれを「甘え」とか「自己陶酔」だと感じた。そうじゃないよね。私にはそう見えるんだけど、書いた本人はどうしても表現したかった気持ちなんだよね。共感できないことを見下してしまうのはよくないことだ。


みっともないこと自体を「ダメです・いりません・消えてください」と否定し排除しようとする意図での指摘をする場合はままあるという認識が私にありました。でも、そう直結させること自体がどうかしていたと思う。

どういう意図で言ったことかは知らないけれど、その方は私を否定しようとして言ったんじゃないということは絶対だったと思う。

もしかすると、みっともない状態から抜け出してほしい気持ちから言ったのかもしれない。でも、その方の主観で「みっともない」と映ったというだけのことで、それは世の中全体すべてにおける真実ではない。そして私自身みっともない気はこれっぽっちもなかった。

……マジ、ドンマイ案件だよ。尾を引くようなことじゃない。




相手に違和感を感じることはあることだし、思うことは悪だとか、言うことは禁止されるべきだとかも思わないけれど。相手にそれを直接指摘する意図は何だ。

《これは公正かつ絶対的な評価だから正しくない状態を矯正する気づきとなり、相手にとって必ず救いになる》というつもりで善意で言うのかもしれないけれど、言われた方は公正かつ絶対的な基準からの指摘などとは思ってないことのほうが多い。よほどの信頼関係がないとただ個人的感情での不快感の発露としか思えない。

不快感を告げられた場合どうしたらよいか。大抵の人は、他人から個人的感情によって行動の選択肢を狭めたり勝手に決定されたりしたら嫌だろう。相手に不快感を与えたらしいという罪悪感に加えて、自分の行動を制限されるんじゃないかという恐怖を覚える。しかし、一方で相手の行動を縛る可能性を考えて不快感を言えないのも大変具合の悪いことだ。

公正かつ絶対的なものなんてたぶんないんだけど、設定しておくと便利なんだよね。

仮に《相手の行動を制限する意図で不快感を告げるものだ》ということにしておくと、一緒にいたい相手には言うとか。一緒にいたい相手から言われたら止めるとか。やり続けて距離をおかれるのは仕方のないことだとか、納得しながら行動していくのに便利。

※ 不快感自体は個人の感情的なものの範疇で公正絶対の共通理解とかではない。

便利だけど、意図なく何気なく発言するのには邪魔。

拍手

PR

頭の中の整理整頓

うつうつするけれど、またブログに書きつけるようにしよう!
(形だけでも)人目につくところに文章を置いておくという意識をもっとかないと、それ用の文章を書くときに配慮する頭がどんどん働かなくなっていってしまうので、メモ帳じゃなくこっちに上げては消すを繰り返すことにしよう。

以前、ブログを読み合うような交流をしている方から「鬱文章書いてるの、みっともない」と言われて、反論に「似たような状況の人の参考になるかもしれない(共感を得て慰めてもらいたいとかじゃなく、鬱な人が書きがちな文章例として何かに使えるんじゃないか、という予感がしていた)」と言ったことがあった。

今思えば、自分でも一体その理由なんなんだよ?! と首をひねるものではあるけれど。

その方とは文章を読むとか、他人に読ませる意図について意識が全然違ってたというのは何となく感じてはいたことでした。畑違いから言われたことなら関係ない話ダネーと今は思えるんだけれど。当時は、同じことに取り組んでいる(ここでは「ブログに文章を書きつける」ということ)人間ならば根本的なところに理解し合える何かがあるはずだと(一方的に)信じていたので、懇切丁寧という名の面倒くさい長文でその方にくどくど説明したりしていた。そういった労力を尽くしてなお「みっともない」という印象になるんだから、私が費やしてきたことはなんだったのかと。ショックでした。

そんなのは、慢心ですね。

何か言葉に出来てるってこと自体が楽しかったからいい気になってたというのは否めない。果たして、「言っていることが伝わるかどうか?」という意識がすっぽぬけていたので、意図を理解しない人に無理やり理解させようとしていた。わからない人は何言ってもわからない。自分が好きなようにしたい人は、好きなようにする。誰が何を言ったところで自分の意見を優先させるだろう。

――ああ。むむ君も言っていたさ。
「好きにしろ」「おまえ次第だ」と。
彼の行動原理はどうやら「俺のため」らしいので、自分のことは自分で決めなさい。そのようにみみみちゃんに言っていた。極めつけは「考えるより先にカラダが動いちまった」から仕方なかったのだし。

……絶対、むむ君はみみみちゃんに好意を持っていたと思う。(『わざぼー』の話)

そんなこんなで、鼻っ柱をへし折られたということでした。

結果的に「自分が一体何を楽しんでいたのかわからない」という状態になって、私情はなるべく書かないようにしようということにしていたのだけれど、考えをまとめる場、文章を書く練習として活用できるものを使わないのは馬鹿馬鹿しいので、「文章書くの楽しい」という気持ちを高めるために書く。書こう。書くぞー!! うおーーーーーっ!!!

とりあえず叫べばどうにかなる気がしている。

はやく元気になりたいなあ!

拍手

撃たれた夢

日も暮れた帰り道、友人らと遊歩道を歩いていると見慣れない中東系の人とポツリポツリすれ違うようになる。だんだん人数が増えていくので何かと思っていると、通りすがりの人が「ここは奴らの溜り場になっている。いつ抗争が起こるかわからないから、関係のない人間は道を逸れたほうがいい」 と教えてくれた。見慣れた遊歩道は、さながら警戒地区のような雰囲気で、中東っぽい人たちは一般人と思われる男、女、子どももいたが、中にはテレビで見るような白い民族衣装を着た男もいた。民族衣装の男たちがヤバそうだと思いながら、遊歩道を出て表の車道へ抜けた。

 表へ出たものの少し気になったので、車道と遊歩道を隔てる生垣の隙間から来た道を振り返るぐらいの気持ちでのぞいて見る。すると、ちょうど生垣近くからこちら側を見ていた民族衣装の男と目があう。何を言っているかわからないが、たぶん「スパイだ!! 秘密を知られたぞ!!」 というようなことを叫んだのだろう。別の男がこれに反応して銃を構え、こちらに向かって撃ってきた。一発、撃った弾は私の腹を貫通した。その場で腹を抱えて倒れてみたものの、苦しさも痛みもなく、気持ちとしては驚いてひっくり返ったような感じだった。

 傷を手当てしなければならないから、病院へ行こうということになる。「奴らからの攻撃なら直接病院に行くのは危ないので、隠密に向かわなければならない」 と誰かの手引きがあって裏ルートを持っているというコンビニに入った。セブンイレブンだ。コンビニの店員に事情を説明するとレジカウンターの奥の扉へ入るよう促される。(どうやら、敷地一帯の地主一家がフランチャイズ契約で経営しているコンビニらしい) 店の奥は作業場になっていて、これまたアラブ系の、子どもと言ってもいいぐらいの若い人たちが何かを作っている。そこを通り抜けて、車庫に移動し、友人らも一緒に車に乗せられる。私は助手席に座った。

 車は見たこともない道を行き、途中で例の民族衣装の男らの車と鉢合わせて追い回されながらも、なんとか病院にたどり着いた。とても病院には見えない建物だったが、これも目くらましのためらしい。中は大きな駅の構内に似ており、だだっ広い空間が広がっている。誰もいない。暗い。高さがあるのか真っ黒く見える天井は星の少ない夜空のようで、小さな光が点々と灯っている。エスカレーターに向かって歩くように言われたので、友人1人に付き添われながら、それがあると思った方向へ当てずっぽうに行った。

 歩いていると、来たときには気づかなかったが、砂の塊のようなものがあたりを吹き抜けていくのが見えた。床を見ても、巻き上げられる砂は痕跡すらないというのに。不思議な現象だ。塊はいくつもあった。空気の流れはなく、砂にぶつかっても感触はない。映像だけのようだった。
 よく目を凝らしてみると人の形をしていることに気がついた。皆、通行人風で、これをちゃんと人として見たとき、この閑散とした建物の中は人通りの多い駅の見慣れた景色になる。それに気が付いたからと言って、実体として見えるのは私たちと建物の空間だけで、あとはすべて幻の砂嵐だった。砂の人たちはまるで私たちを気にする様子はない。
 私は腹を押さえている手を砂嵐に差し伸べた。母子の形をした塊の子どものほうを撫でるつもりで頭を掴むと、手の中で砂粒の細かい感触がある。開いた手のひらから砂がこぼれ落ちた。触れなければすり抜けるが、触れようとすれば存在を確かめられる。しかし、彼らは砂なのだ。
 人影のことは気にしないようにしながら、私たちは砂嵐の中を進み、エスカレーターを上った。

 上の階は娯楽施設らしく遊具が並んでいた。砂嵐の人影もなく、遊ぶ人間のいないUFOキャッチャーの機械や、卓球台や、ビリアードのテーブルが置いてある。遊具の群れから外れたところに、壊れた卓球台の天板が置いてあった。砂にまみれている。砂と崩壊のイメージが重なり、下の階の人影が途端に死人のように思えてゾっとなる。

 闇雲に進んでいくと、突然、蛍光灯の鋭い光が四角く浮かび上がった。押しボタン式の自動扉があって、向こう側に病院の待合い所があるのが見えた。中へ入ると、扉の近くまでやってきた医者が4、5人列になって出迎えてくれた。


 * * *

開店時刻のデパートかよ。
砂の人たちは居てもいなくても同じな人たちで、そんなのみんな死人と一緒だよね、みたいなことなのかもしれない。

2013年に見た夢のメモ。

拍手

庭に子どもが入り込んで遊んでいた

庭に子どもが入り込んで遊んでいた。庭は現実と様子がだいぶ違っていて、多少広いように思えた。1メートルぐらいの低い生垣に囲まれた敷地の一面は芝生で覆われている。何本か低木を植えて道や広場のように整備されているが、すこし歩ける程度で運動できるほどではない。植わっている植物に実が生ってるとか花が綺麗みたいな面白いところはないし、遊具が置いてあるわけでもない。子どもが何を目当てにやって来るかは謎だ。(物が密集していながら秩序の確保された狭い空間に秘密基地的魅力があるのかもしれない、とは思う) どうやら、生垣の隙間から侵入してきているらしかった。
 私は起き抜けで寝間着のままだった。家の中から様子を見ていた。家じゅうの電気はつけていず、窓からの自然光で明かりとりする部屋の中は薄暗い。庭へ通じる掃き出し窓からぼんやりと、レースカーテン越しでは向こう側は白く霞んで見える。
 2つ、影が横切った。男の子が2人、生垣から這い出てきた姿勢そのままで、奥行の半ばあたりを左へ向かって移動した。途中で私の視線に気づいたらしく、一瞬だけ気まずそうにこちらを見たが、逃げるそぶりはなく居座った。さらにもう1人、入ってきた女の子は彼らとは関係がない様子で窓近くの踏み石のところに蝋石で絵を描きはじめる。
 不法侵入だ。私は大声で注意した。閉め切ったガラス戸とカーテンに阻まれているのでそれぐらいの勢いはいる。子どものやることだから見過ごそうとも思ったが、2人から3人へ増えた子どもの数は脅威だった。これ以上たまり場にされるのは迷惑だ……などという気持ちは届かなかったらしく、子どもたちは物おじせずに堂々と遊びつづける。あきらめて遮光カーテンを引いた。
 現実と同じで、庭へ出られる窓は2つある。間取りが隣り合っているリビングと和室の2か所だ。今まではリビング側から見ていた。
 いい加減着替えようと思い、タンスのある和室へ移動する。和室側の窓は手前に置かれた洋服掛けのために1.5メートルほどの距離が塞がれて近づけない状態だ。かなりの量の背広が下がっているので、こちら側からも庭のほうからも様子は見えづらくなっている。窓の障子戸が閉まっているのに安心して、弱い光をたよりにタンスから着替えを取り出す。服を脱ぎはじめたところで、ふと、洋服かけの向こうの窓から風が吹き込んでくるのを感じた。
 明るい。窓の鍵が閉まっていなかった。
 庭に侵入してきたと思われる母子2組が家の中にまで入ってこようとしていた。母親を追い抜いて1番乗りで駆け入ってきた男の子は、得意になって自分の母親になにやら言っている。彼の母親は西洋人の風貌をしていた。もう1人のほうはアジア人風でおしゃれな格好をしていた。2人とも若くて美人だ。
 母親たちは談笑しながら機嫌の良い様子である。どちらかといえば西洋人の親子のほうがためらいなく家に入ってこようとしており、アジア人のほうもさも当然と言う風だった。私が入ってくるなと言ってもお構いなしで、逆に、トイレなどの設備を使わせろと言ってくる。
 和室から廊下までをずいずい進む彼女たちに押されるようにして、すっかり侵入を許してしまった。その勢いのまま、おしゃれな格好をした母親は私の大切なものがしまってある部屋(夢の中の架空の部屋) へ、まったく気遣う様子もなく子どもと一緒に入っていく。そして、当然のようにそこにあるものを使って子どもをあやしはじめたのだった。
 私は西洋人の母親の息子のほうを捕まえてリビング側の窓まで引きずった。カーテンとガラス戸を開け放ち、子どもを庭に放り投げた。芝生の上に仰向けに転がった子どもは何が起こったのか、どうしてこんなことになってしまったのかわからない、という顔をしてこちらを見ていた。


* * *

わたしは悪くないと思うんだ。
でも、最後に投げられた子どもにはわかんねぇだろーなぁ……。

2013年に見た夢のメモ。

拍手